危機管理の基本:その⑨ 感染症数理モデル

 過去や現在から未来を予測することは、人間の知恵であり、人間が人間である所以である。しかし、あまりにも複雑な現実に目を奪われるとパラメータが多すぎてとても未来を予測することなどできそうもない。ピカソは”芸術は私たちに真実を認識させてくれる嘘である”と述べている。数理モデルもピカソの絵のように複雑な現実から未来をみせてくれるアートなのかもしれない。

R0(Basic Reproductive Number: アール・ノウと発音:基本再生産数)

 ある感染症に罹患した生徒が、その感染症に全く免疫を持たない小学生クラスに入ってきたとしよう。この最初の患者は隣の席の生徒1人にうつした。この生徒はさらに2人を感染させた。そのうち1人は誰にも感染させていないが、もう1人は別の1人に感染をうつしている。そして感染は徐々に広がった。

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個々の感染者が平均で何人に感染させたかを以下の単純な公式で計算することができる。

(1+2+0+1+4+2+0+0+1+2+2+1)/12=1.3

 この1.3はR0と呼ばれる。このR0を定義すると以下になる:ある感染者がその感染症に免疫を全く持たない(感受性のある人: S: susceptible)集団に入ったとき、感染性期間に直接感染させる平均の人数。

 例えば男女同数で必ず結婚し、必ず2人ずつ子供を産むとすると、その人口は保たれる。感染症の場合”2”ではなく”1”が理論上重要になる。

R0 < 1: その感染症は最終的に消滅するであろう。

R0 = 1: その感染症はその地域に留まり風土病(地方病)となるであろう。

R0 > 1: その感染症は流行するであろう。

 感染回復後免疫を獲得する(2回目に同じ感染症患者と接触しても発症しない: immune:図では薄いグレイで塗りつぶした丸)とする。図で濃いグレイで示した最後の患者は周囲には免疫をもつ生徒の割合が増えるため、最初の頃のように病気を感染させにくくなっている。これを集団免疫という

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 感染が伝搬していくにつれ免疫状態の生徒が増えるわけであるから、時間t のときのRをR(t) と呼べば、R0> R(t) で、R(t)=R0 x S/N(N:合計人数)で表される。上図の場合、1.3 x 16/28 = 0.7 となり、R(t)は1未満なので、やがて感染症は終息する。全員が感染せずに感染症が終息するのはこれが理由である。ウイルスの感染性が弱まったわけではない。

 そのため、R0は、流行の極初期、まだ免疫を獲得した生徒数を無視し得るほど少ない状況で測定できる(どのくらいまでを初期と呼ぶのかの定義もないが、患者数が指数関数的に増加する時期のデータをとることが多い)。つまり、R0は推定値であって、初期であればある程、値がぶれる可能性があり、過信しない方がよい。しかし、迅速な対応をするためには、早期におよそのR0 を把握する必要がある。

R0 = 4 の感染症に対して免疫獲得率(ワクチン接種により感染症を防げる免疫を得られる割合)が80%のワクチンが開発された。何%の人々がワクチン接種を受けると感染の広がりを抑えることができるか?

 感染者が免疫を持たない集団に侵入したとしよう。R0=4なので、この患者4人にうつす。しかし、この時点で25%がワクチン接種により免疫を獲得していたなら4人のうち1人は感染しないので、3人にしか感染しない。では50%がワクチン接種を受け免疫を獲得していたらどうであろう。同様に考えて2人しか発症しない。75%では4 x (1 – 0.75) = 1で1人にしか発症しない。76%であれば平均1人未満に感染させることになり、すなわちR0 < 1だから、その感染症は減少するはず。よって75%より多くの人がワクチン接種を受けかつ免疫を獲得していれば、この感染症はやがて消滅する。

 ワクチンを接種したからといって免疫を獲得するとは限らない。ワクチン接種率(p)が95%で、免疫獲得率(a)が80%ならワクチン接種による免疫獲得率は76%となる。先の説明に戻ろう。ここにR0=4の感染症に罹患した人が免疫獲得率80%の(=p) ワクチンでその接種率aの集団に侵入した際、R = R0 x (1-ap) = 4 x (1 – a x 0.8) で、これが1になるa を求めるとa = 0.9375となる。94%以上の接種率で終息するはず。

100%ワクチン接種しなくても、エピデミックにならないのは集団免疫の原理である。

R0 は1回当たりの感染率(b) x 1日1人が接触する人数(k) x 感染日数(D)の積で表される。 R0 = b x k x D

 1回当たりの感染率(b)は病原体によっても異なるし、同じ病原体でも感染経路によって異なる。HIV感染の場合、握手しただけでは感染しないし(β=0)、性行為でも0.001 – 0.1 と幅がある。男性間の性交の場合、肛門部にびらん・潰瘍をもつことが多く、感染率が男女間より高まる。輸血による感染率は1.0 に近い。手を洗う、マスクをつけるといった対策は、このb を下げることに他ならない。HIV感染が1.2であったときにコンドームが25%に使われたとすれば、R=1.2x(1-0.25)=0.9 となり感染は終息する。

 

 1日1人が接触する人数(k)もやはり感染経路による。麻疹であれば、単純に1日1人が接触する人数であるが、性感染症であれば、月(あるいは年)間の新しい性交渉相手の数となる。インフルエンザであれば、1.5m など飛沫感染の距離に接近した人の数。患者を隔離すれば(k)を下げることができる。都市では田舎に比べ(k)は増え、R0も大きくなる。

 感染日数(D)は微生物の種類に依存する。治療によりDを短くできる可能性がある。

 以上のように考えると、どうやったらR0を小さくできるかが見えてくる。しかし、β、κ、D を測定することは困難を極める。ましてや新しい感染症ではこのやり方でR0を推定することはできない。実際のやり方は後述する。

 

基礎となる感染症数理モデル

 本書は感染症数理モデルの解説が主目的ではないので、最も基本的なものだけ紹介する。出入りのない閉鎖系*集団で潜伏期間はゼロ、感染性期間と有症状期間は一致するものとする。集団の人数をN。全員はその感染症に免疫をもたず、そこに感染者が1人入るという設定である。このN人の集団は以下の3つに分類される。*解放系:人口は出生と死亡という流れのもとに動態を保っており、この点を考慮に入れる。

Susceptible (S): 感染症に対して免疫を持たず感受性(感染発症する可能性のある人)

Infectious (I): 感染性を有する人

Resistant (R): 感染から回復し、免疫を持つ。その感染症には再度感染しない。

 この基本となるモデルはSIRと呼ばれる。

初期状態ではS = N であり、I = 1, R = 0 である。感染症が流行するに従って、Sは減少し、Rは増える。一方、I は増え、やがて減少する。

 集団の中にはS, I, Rの3種類の人が居て、これらの人がブラウン運動をしながらランダムに接触する様子を想像いただきたい。パターンとしてはS-Sなど6通りある。感染は6のうち「SとIが接触」したときだけに発生する。先のb (1回当たりの感染率), k (1日1人が接触する人数)を使う。これをN人の集団でみれば、1日合計kN 回の接触があることになる。例えば自分が感受性者(S)で、今日誰かに会うとする。そのとき、その人が感染者である確率は、I(t)/N である[I(t)は時間tのときの感染者(I)の人数]。自分が今日(時間t)、感染を受ける確率はl(t) = bk I(t)/N で表される。しかしながら、Nが増えると密度が高まり接触回数も指数関数的に増えると想定すればNが相殺されるので、式からNは消えると考える人もいる(こちらの考えはマイナー)。集団が完全にランダムに接触するとき、λ(t) にSを掛け合わせたものが、新規発症者数になる。

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 dS/dt:単位時間あたりどれくらいS(免疫を持たないものの数)が変化するか?新規発症者数分減少していく。dI/dt:単位時間あたりどれくらいI (感染性をもつものの数)が変化するか?新規発症者数分増加していくが、回復期に入った患者分減る。dR/dt: 単位時間あたりどれくらいR (免疫をもつものの数)が変化するか?回復期に入った患者分増える。

 

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