リスク分析の事始め(9) 「大局観を持て」と言うのはたやすいけれども(2)

 今現在の社会や政治の将来を考え、自らの晒されるリスク、晒されるに値するリスクの程度を図る際の指針となる「大局観」という時に、私が出発点とするのは、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』(三笠書房、1992年)と、サミュエル・P・ハンチントン『文明の衝突』(集英社、1998年)である。この二冊はいずれも、1989年以降の、東西冷戦が崩壊した後の世界秩序がどのような理念と原則に基づいて作られるのか、という課題を扱っている。

このような問いに正解はないし、実験室で結果を出せるテーマでもないから、全て仮説であり、哲学的思弁である。そんなものがわれわれにとってのリスクを測るのに役に立つかというと、役に立つ。というよりも、そのような曖昧な大局的視点でしか究極的にはリスクは測れないのだと思う。何が対立や紛争の軸になるか、それは時代によって異なる。リスクは時代思潮の産物でもある。何が支配的な時代思潮であり、そこにどのような対立や紛争が含まれているか、支配的な議論や論争から知っておくことが、リスクへの感度を高める。

 フクヤマの本の元になったのは、雑誌The National Interest の1989年夏号に掲載された論文 “The End of History?” であり、これが議論を湧き起こしたうえで、拡張して1992年に大著The End of History and the Last Manとなった(邦訳はほぼ同時に出た)。ハンチントンの本も、元となるのは雑誌Foreign Affairsの1993年夏号に掲載された論文 “The Clash of Civilizations?” で、これもまた大きな論争を引き起こした。そのうえで1996年に単著The Clash of Civilizations and the Remaking of World Orderとなった。いずれも元論文のタイトルには?がついており、壮大な仮説であり問いかけであった。フクヤマの本が1992年に、ハンチントンの元論文が1993年に出ている(さらにそのもととなるAmerican Enterprise Instituteでの講演は1992年に行われている)ことから分かるように、この二つは、それぞれが論争を呼んだだけでなく、両者は対峙して論争を繰り広げているのである。

 これらの本は学者の間の議論では異論も多い。様々の批判も呈せられた。しかし現代の世界を実際に左右する諸力や趨勢を察知したいという関心からこれらの本を手に取る読者にとって、それらの論争はさほど重要ではない。これらの本自体が実際に大きな影響力を持っているという事実と、これらの本では実際に影響力が大きい現代政治の諸力をたとえ多少荒っぽくとも特定している(特定していたことが後になって分かった)というだけで十分である。

 イスラーム世界の宗教と政治に、将来の国際社会を動かす何かがある、と私が感じてこの分野に分け入るようになったのも、1990年代の初頭に世界の思潮をリードしたこの二冊の本の影響が大きい。この二冊の本で切り開かれる地平があるとともに、多くの謎や疑問や不明なところが出てくる。最大の謎がイスラーム教やイスラーム世界だった。そのようなところにはリスクと共に機会もある。

あらゆるところであらゆる人に「なぜイスラーム世界に興味を持ったのですか?」と聞かれるのだが、いつもの同じ質問に対する同じ答え方を、一つの文章で書いたことがある(『増補新版イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社、2016年)に収めてある)。この二冊の本は、イスラーム世界を震源とするリスクの所在、あるいは所在をめぐる論争を指し示しており、結果として、リスクと背中合わせの機会の所在も暗示していた。こういったある時代に全世界の議論を主導する論文や本には、否応なくわれわれが参照すべき大局観があると考えていい。

今現在、同様の大局観を示し、将来に顕在化するリスクの所在を指し示してくれる書物はあるだろうか。次回に今度はもっと近い時期の支配的な思潮から、今後のリスクの移り変わりの方向性を考えてみよう。

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