リスク分析の事始め(2)「戦略的不信」のすすめ

 リスクにもいろいろある。ミクロのレベルでの事件・事故の回避や対処策から、マクロのレベルでの政権崩壊や戦争・内戦の勃発といった政治リスクの予測と対策まで、幅広くある。

 非常にミクロなレベルで、例えば、あなたの会社の海外拠点に危険が迫っていないか。危険が高まる兆候があればどうすればいいのか。その場合はもちろん、通常の意味での警備体制の強化を図るべきだが、その際に、現場の末端の現地雇用の人間とどうコミュニケーションを図れるかが、最後の詰めとして重要となる。お金をかければ、警備体制は整うし、情報も売ってくれる。しかしそれが本当に機能するのかどうかわからない。そもそも本当に狙われていれば、警備会社の内部にさえ脅威は浸透していることすら考えられる。情報はその読み解き方を知らなければ、その価値は生まれない。

 これは日本の話だが、日本の高成長時代を牽引したとある官僚が、社会の動きを知るためには中央官庁の会議室での議論ではなく、通用口で門番を務める守衛さんのところに、夜勤の休憩時間を狙って一升瓶を持って出向き、語り明かしたという。また、とある米国の投資家は、同僚や友人が投機に熱中している間はまだ安全だが、自分の家に来るメイドが株の話をし始めたら、バブルが弾ける時期だ、と判断するという。末端の人たちの判断や行動は、放っておいたら当人たちが言葉にしてくれるわけではない。通常のルートから得られない情報というものは、怪しげな情報屋から得るよりも、実は非常に身近なところから得る方法があることに、注意していただきたい。

 ただ、これが容易ではないことはもちろん私も分かっている。現地の末端で働く人たちから現地事情を聞き出しリスクを察知する手がかりとするためには、まず現地語の能力といった技術的な障壁があり、ビジネスの共通語である英語だけでは到達できない世界が奥深く広がっている。そこにどれだけ分け入って入っていける人材を擁しているかが、各組織の国際的な展開力の基礎的な相違を決定づける。リスク対策にとどまらないより一般的で根深い問題である。これについて、私は日本の企業や官公庁の人材育成・先発システムは決して十分に機能してはいないと考えている。

 しかしそのような能力の問題の以前に、構造的な、立場の相違からくる制約は大きい。こちらが外国人の雇用者で、相手が現地の仲介者や企業を介して雇われた非雇用者である以上、そう簡単に腹を割って話し合うことなどはできないのである。

 私は研究所で調査研究を主業務としつつ大学の教室で教えているが、そういう時に同じく大学教員だった父が、家で時々ぽろっと言っていたことを思い出す。「こちらが教師という立場であり、学生が学生である以上、学生は教師に決して本当のことは言わない。だから学生の言っていることは全部、嘘だと思っておけ」。親しく接してくる学生に対してもこの調子なのだから、どれだけ人間不信なのかと当時は思ったが、自分が同じ立場になってみると、このような姿勢でいて初めて、様々な事情を抱え、悩みながらそれぞれも未来の可能性を希求している学生たちと対等に向き合い、本当の意味での立場を超えた信頼関係を築くことができると思い至った。立場上必然的に教師の耳に心地よいことしか言わない学生たちに接する際の、父の自分に対する戒めだったのだと思う。

 これを私は「戦略的不信」と名づけている。不用意に相手を信じてしまわないことが、相手を信じてしまってはいけないような条件が存在することを認識することが、相手との間の本当の信頼関係を築くために、必要なのである。それはリスクを乗り越えて活動していくための「自律」にもつながることであり、現地社会の人々を本当に尊重して向き合っていくための基本姿勢でもある。

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