リスク分析の事始め(6)カッサンドラの予言

 

 中東をめぐる「ヴィジョナリー」といえば、まずは1990年代半ばの「カッサンドラ論文」が思い当たる。アメリカの中東研究所(Middle East Institute)が発行する中東分析の雑誌『Middle East Journal』の1995年冬号に掲載された論文「エジプトに迫り来る危機」は、ムバーラク政権が広範な民衆の不満により崩壊の瀬戸際にあると論じた。

 著者の「カッサンドラ」はもちろん偽名である。米国政府関係者がエジプトの危機的状況について警告を発するために著したものと見られている。なお、カッサンドラとはギリシア神話でトロイアの滅亡を予言して受け入れられなかった予言者の名である。 

 論文が示す現状の認識の部分を読んでみよう。 

 エジプトにとって、深刻な政治的、社会的、経済的困難は目新しいことではない。しかし、今日エジプトが直面している困難は特に急を要し、政府は効果的に対処していない。ホスニー・ムバーラク大統領の政府は、経済的な耐乏によって強まる政治的圧力を緩和するために政治参加の機会を増やすのではなく、自律した政治的表明を封じ込めようとしている。だが、国家の封じ込め能力は、厳しい試練に晒されている。もし、究極的には封じ込め能力が不十分であると分かれば、エジプトの国家は、革命の危機に、ほとんど寄る辺なく立ち向かうことになる。エジプトの同盟国は、米国も含めて、手助けをする準備もなく手立てもない。

 まるで、2011年のムバーラク政権崩壊の直前を描いているようだ。何が問題なのか。

 経済と政治の連関したシステム崩壊の危機が潜んでいることは、明らかである。第一は急成長の後の厳しく長びく停滞である。これは政治的不安定化をもたらすことの多い、循環的なパターンである。エジプト人の大多数は、期待する生活条件と現実との間のギャップが広がる中、ますます相対的な剥奪感に苛まれている。

  これもまた2011年のムバーラク政権崩壊の原因を論じているのだと考えればぴったりくる。

 この論文ではエジプトの政権が抱える危機の根源を次のように分析している。①経済的な相対的剥奪感の増大。②経済改革の遅延。特に民主化と規制制度の整備が不備のままである。③政治改革の遅延。政権が国民の広範な支持基盤を獲得するための改革に抵抗している。④それにより政権の正統性が失われている。⑤イスラーム主義の武装集団が出現している。⑥政権の存立基盤である軍と治安部隊に亀裂の兆しがある。⑥政権の保護者である米国の関心の薄れがある。Cassandra, “The Impending Crisis in Egypt,” Middle East Journal, 49:1 (1995: Winter).

 このように、1995年の段階ですでに、エジプトのムバーラク政権の危機的状況は専門家によって分析されていた。ただしそれは2011年まで現実化しなかった。この論文は長く「狼少年」的扱いを受けていたのである。

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