リスク分析の事始め(10):「歴史観」はリスクとチャンスの評価の究極の軸

 この連載は、われわれが直面する、特に海外に展開する際に増大する「リスク」をめぐって、根本から考える場にしたいと思っている。まずは外堀を埋め、適切な認識の枠組みを作り、その枠組みの中に様々な情報がどう収まるか、実例を持って読者と共に考えることができるようになるところまで進められればいいと思っている。

 前回の記事から少し時間が空いてしまった。その間に、バングラデシュのダッカで日本人の途上国開発援助事業の関係者が多く巻き込まれるテロ事件も発生した。海外展開におけるリスクとその管理への関心はいよいよ高まっている。連載開始当初は、日本でリスクに関する認識が浸透するまでの間に、外堀を埋める作業にもう少し時間を使えることを見積もっていたが、予想よりも早くリスクをめぐる切迫感が高まってきたようである。少し話を急ぎ、今後は、情勢の展開に応じて、外堀を埋める作業をしばしば中断してでも、個別具体的な問題への考察を挟んでいきたい。

 外堀を埋める作業の手始めとして、前回、前々回はハンチントン『文明の衝突』論や、フクヤマの『歴史の終わり』に言及した。これらに言及したリスク論は、かなり迂遠な話に見えたかもしれない。しかしリスクを判断し自らにとって適切な行動を決めるにあたって、究極的には、この大局観をもって判断をせざるをえない。「大局観」はもう少しわかりやすく言えば「歴史観」と言ってもいい。

 フクヤマについて言えば、1990年前後の段階で、リベラル・デモクラシーが、世界の体制をめぐる理念として普遍的で最終的なものとして決着がついた、という大胆な「歴史観」を提示した。これは大きな飛躍がいくつもある議論だが、その瞬間の世界の支配的な気分を捉え、言葉にしたものであった。

 ハンチントンは1990年代前半から半ばにかけての国際情勢を踏まえて、リベラル・デモクラシーが定着する地域や人間集団は限られており、地球上のかなり大きな領域や、多くの人間集団は、民族・宗教・宗派といった原初的な紐帯に沿ってしばしば結集して「文明」と呼ぶべき単位を形作り、それらの間にしばしば紛争が起きる傾向があることを論じた。

 どちらが正しかったのだろう。

 振り返ってみれば、どちらも(ある面では)正しかった、としか言いようがない。リベラル・デモクラシーがほぼ唯一の「正解」として世界各地に伝播し、国家と制度の構築の理念として推進されてきたのがその後の四半世紀であった。この現実は今後もそう簡単には変わらないだろう。

 同時に、リベラル・デモクラシーが受け入れられ、適用され、適切に運用される世界はそれほど広くないことも、実感としてわれわれは気づかされている。民主化の試みがかえって内戦や国家分裂の陰惨な結果を招いている事例も多く見られ、そこでは原初的な紐帯に沿って結集した諸集団がしばしば台頭している。

 また、リベラル・デモクラシーを率先して発展させ、自国に定着させたと自他共に認める米国や西欧諸国などでも、リベラル・デモクラシーの制度疲労や限界が見えてきている。それについてはフクヤマはその後の諸著作で徐々に考察を深め、『政治の起源』(会田弘継訳、上下巻、講談社、2013年)などの著作に結実させている。今現在の時点を軸足に将来を展望するために、示唆の多い書物である。

 重要なのは、その時の世界に支配的な潮流は一つではないかもしれないということだ。そして支配的な潮流はしばしば移り変わる。複数の「潮」が渦巻き、ぶつかり合って波しぶきがほとばしり、周期的に支配的な潮流が入れ替わるのが世界史だろう。渦に巻き込まれずに、流れに乗る。その見極めのために必要なのが歴史観である。

 リスクというものは人間が生きて活動している以上ゼロにすることはできないものであり、組織にとってもそれは同じである。機会はリスクと不可分であるとこの連載の初回(リスク分析の事始め(1):リスクはチャンスと表裏一体)に記した。だからと言って無謀にリスクの高い事業にむやみに挑んでいては、早晩命取りとなるだろう。取れるリスクと取れないリスクを分ける基準はどこにあるのか。そこには万人に共通した答えはない。人によって、事業主体によって、事業の性質によって、数多くの基準があり、精査しなければならない項目があるだろう。しかしそれらをすべて積み上げてもなお、進むに値するか否かの決断は、歴史観を抜きにしては判断しようがない。逆に言えば、何らかの歴史観なしに判断をしようとすると、判断を誤るか、あるいは判断の基準がないことで判断停止が続き、結果としてチャンスを逃すということにもなるかもしれない。

 この「歴史観」は、なにか大きな政治判断や経営判断を行う立場にのみ必要とされているかのように感じられるかもしれない。しかし実際には、リスクを負って機会を求めて踏み出す一人一人の日々の判断に関わっているものなのである。

前のページに戻る